小学生が見せた黄金の精神

【結論】

・覚悟とは犠牲の心ではない

今、日本は経済的格差が目に見える社会になってきた。

 

子どもは自由に伸び伸びと育つことを推奨するが、

多くの子どもは習い事をしているため、時間に追われることが多くなった。

以前のようにそもそも時間を忘れて遊ぶことは出来なくなりつつあるのかもしれない。

 

Cは、いわゆる昔ながらのガキ大将というイメージで、

身体が大きく運動神経に優れており、仲間内で先頭で腕組みしているようなタイプだ。

 

その彼が五年生の途中から初めてサッカーに触れた。

 

「仲の良い友だちがサッカーをやっているからおれもやりたくなった」

仲間といる時間をもっと増やしたかったのかもしれない。

 

Cは運動能力に優れていたため、

サッカーを始めると、途端にある程度の肉弾戦で力を発揮した。

根本的に身体の強さが光っていた。

 

しかし、一昔前のサッカーであれば体力と根性にモノを言わせて活躍が出来たが、

今のサッカーはサッカーIQなど、知性の部分が特に求められる。

 

そして6年生になると、公式戦はすべて最後の大会になる。

自然と選手もやり切るために妥協を一切しなくなっていく。

居残り練習、自主練習、とにかくプロ意識の高い選手を中心に黙々と練習に打ち込む。

 

時間が経過すると共に、

Cの中にはある種、葛藤のようなものが生まれていった。

 

学校では腕っぷしの強さもあって主役として威張れる。

しかし、サッカーになると自分が一番出来ない人間として扱われる。

我執というか、自分がどう見られているのかってのは、やっぱり気になるよな。

 

大人になると、それは「立場と役割」という解釈の元、

自然と受け入れることが出来るようになっていく。

 

けど、まだ小学生にとって、その相反する環境と状況に対して理解が出来ない。

「何でこうなるんだ?」って、Cからはずいぶん相談を受けた。

 

そのうち、得体の知れない恐怖を抑えるために、

Cは練習もサボるようになり、自分が威張れるフィールドに戻ることも視野に入れつつあった。

 

だけど、「サッカーが好きだから」と言って、

決して辞めるという選択はしなかった。

 

こういう状況について、腐ったみかんと解釈をするコーチもいる。

最後の夏は真剣勝負。

揺れている場合じゃない、分かる、とても分かる。

 

人間教育の幅を広げるかどうか、考えれば考えるほど深みにハマっていく。

最終的な判断はとても繊細でシビアなものに落ち着くんだけどね。

 

そして最後の大会が始まった。

 

親や関係者はみんな観に来る。

グループ突破を掛けて熱い試合が続く。

 

けど、熱いプレーとケガはもはや表裏一体だと思う。

 

・・・スタメンのやつが負傷した。

前半早々だった。

少なくともこの試合は難しいことが分かった。

 

「誰がやるか?」

 

ベンチの判断で試合は決まる。

 

誰を使うのか、、、

奇遇にもそのポジションはCが得意とするポジションだった。

 

6年生にとって最後の大会、

親からすれば、最後はなんとしても有終の美を飾りたいと考える人も多い。

とはいえ、想いだけではやれないので、ある程度の狙いと勝算は持たなきゃならない。

 

一瞬だけど、とても深く、次の展開を見据えて熟考した。

 

「C、行こうか」

人知れず悩みながらも前へ進もうと頑張る彼を信じたくなった。

きっと何かもたらしてくれるだろうって。

 

Cはすぐに準備して交代ゾーンに向かおうとする。

 

しかし、交代ゾーンに向かう途中でベンチに引き返してきた。

 

ちょっと意味が分からない。

 

ちょっと半泣き。

 

ますます意味が分からない。

 

「おれの代わりに○○を出してください」

突然の申し出。

 

「・・・出たくないってこと?」

「出るべきじゃないと思う」

 

時間も無いのですぐに指名したそいつを交代ゾーンに送り込んだ。

・・・5年生ね。

 

「ここは譲るべきだと思った」

という言葉を言い終わるかどうかで号泣。。。

 

意味は分かってる、そういうことなら、そういうことなんだろう。

その意図と決意が伝わってきた。

 

とりあえず、おれももらい泣きしそうだった。

 

「その決断、素直に凄いと思ったよ」

ただひたすら横で泣いているのでほぼ独り言のように伝えた。

 

「譲るべき時と譲ってはいけない時がある、後で詳しく話すけど、今はそれだけを覚えておいて」

と伝えて、また試合に意識を戻した。

 

身体の震えが止まらなかった。

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